2011年2月28日月曜日

Christchurch earthquake 2

頻発する余震(aftershocks)
地震から1週間経った。救出作業で、遺体が、次々と搬出され、瓦礫の下に閉じ込められた人々の生存は、ほとんど絶望的となってきた。遺体の損傷が激しく、身元確認も、遅々として進まない。それでも、望みを失わず、探索し続けて欲しいと願うのは、犠牲者のご家族だけではない。神戸大震災の時、幾度も、奇跡的に瓦礫の下から救い出された人々のニュースが流れたのを思い出す。あんな奇跡が、たくさん、今回の地震でも起こって欲しいと祈るばかりだ。

それにつけても、こういう非常事態につけこんだ略奪者(looters)続発のニュースには、失望と怒りでいっぱいになる。略奪被害者の方が、犯人を死刑にしたい!撃ち殺してやりたい!と、憤る気持ちが良く解る。これが米国なら、略奪者は、たちまち住民や警察に撃ち殺されて当り前?だろうに!

2007年に姉たち3人との南島旅行でお世話になった、クライストチャーチ在住で、観光ツアーガイドをしているクレイグ(Craig Rome)。彼の安否が心配で、23日、メールをしてみた。25日に返信があり、彼は無事とのこと、安心した。日本語が達者なクレイグは、日本から来たテレビ取材班を連れて現場を回ったり、記者会見会場で日本人関係者のお世話をしたり、多忙に過ごしていたそうだ。

被災現場は、危険なので一般の人は入れない。日本人被災者の家族も、現場に入れてもらえず、イライラした日を過ごしている。実際、22日の大余震後も、震度3~4の余震が頻繁に起こっている状態だ。倒壊を免れたビルが、余震の揺れでいつまた崩壊するかもしれない危険性がいっぱいなのだ。

NZ史上最悪の地震被害は、80年前の1931年2月3日、ホークスベイ(Hawke's bay)で起こった震度7.9の大地震で、256名の死者が出た。この時、ネイピア(Napier)の街は、崩壊し、解体再構築。当時流行のアールデコ(Art Deco)調に街を再生し、美しい街として、今は、とても人気の観光スポットとなっている。

今回の大余震は、1931 年の地震より、死者が増え、史上最悪となるだろう、とジョン・キー首相は、語っている。クライストチャーチのボブ・パーカー(Bob Parker)市長は、クライストチャーチの中心街区(CBD:Central Business District)は、全て解体し、再構築することになるだろう、と言う。クリストチャーチが、早く元気を取り戻して、また美しい街へと再生して欲しいと願わずにはいられない。

2011年2月24日木曜日

Christchurch earthquake

Biggest aftershock
昨年9月4日、4:35am、マグニチュード7.1 の大地震が、カンタベリー地方、クライストチャーチを襲った。それ以来、大小の余震が続き、心休まる間もないまま、それでも少しずつ復興に向けて住民は頑張ってきたに違いない。それだけに、22日(火曜日)の、突然の大余震(マグニチュード6.3)で、現地住民のみならず、NZ国民全体、現地滞在して惨事に巻き込まれた人々の母国に、ひいては、世界中に、大きな衝撃をもたらした。

9月4日の地震は、早朝に起こり、死者ゼロで、それほど悲壮感がなかったが、今回は、火曜日午後12時50分、人々が外で一番活動している時間帯に起こっただけに、悲惨だ。普段、昼間はテレビをつけたことがないけど、この時以来、ずっと朝から点けっぱなしで見ている。

バスが、駐車中の車が、崩壊する建物の下敷きになっている。これまでの地震で、あちこちひびが入っている古い建物が崩壊するのは無理からぬとしても、耐震対策をしているはず?の高層ビルが、まるで9:11のツインビルみたいに、あちこちでいとも簡単に倒れ瓦礫の山となっている。市街地は、煙?砂埃?で、さながら戦地の様相だ。

震源地はクライストチャーチの東南10キロのLyttleton。直下型で、5kmと浅いから、阪神淡路大震災以上の衝撃をもたらしたとか。今回の一連の地震で、改めて、地震に無知であることを再認識。あれこれ調べてみた。NZは、どうやら日本と同じ地震大国らしい。

死者の数はどんどん増え、現在72名、300人が、なお行方不明だと言う。日本人が学ぶ英語学校の入っている6階建てのCTVビル(Canterbury Television building)が崩壊し、英語学生だけでなく、100人位のCTVの職員が巻き込まれているのではないかと、言われている。23日朝には、オーストラリア、シンガポール、台湾、アメリカから続々と救助隊がかけつけた。実に迅速だ。

日本は?まだ?と、やきもきしていたら、今朝やっと着いたらしい。日本は、日本人が閉じ込められているCTVビルを担当するとのことだ。一時、絶望視され、捜索を中止された現場は、まだ、煙が上がっている。奇跡的に、一人でも多くの人が救出されることを、願うばかりだ。

ジョン・キー首相は、NZ始まって以来の大惨劇だと、ほとんど毎日、クライストチャーチに来て、自ら陣頭指揮したり、メディアを通し、絶え間なく被災民を励ます、あるいは、各国の協力に謝意のメッセージを流したり、骨身を惜しまず活動している。今年は、総選挙の年で、与党の 国民党(National Party)が、ふたたび政権をとることができるかどうか、危ぶまれてる。でも、いつも、ジョン・キーはきっぱりとした発言、態度の人で、私は、個人的には好感を持っている。

米国、英国、カナダ、オーストラリア、その他の国家代表が、NZへお見舞いのメッセージを発しているけど、日本の代表の顔は、いつものことだが、見えない。日本も、ジョン・キーくらい、はっきりした発言をできる人物が代表になって欲しいものだ。

地球上には、宗教や文化の違いから、あるいは、専制政治により、醜い戦争、殺戮の毎日を過ごす、心にゆとりのない人々が住む国がある。一方で、大洪水、津波、嵐、などの被災国に、宗教や文化の違いを超えて、助け合いの手を差し伸べる暖かい心を持つことができる人々のいる国がある。そういう国の一つに住めることを感謝しなければならないと思う。

(*NZ在住と言うことで、たくさんの方から、お見舞いのメールをいただきました。ご心配くださってありがとうございます。ここ、Palmerston North は、大丈夫です。)

2011年2月21日月曜日

NZの隅々を旅するの記9-10b

10月14日 Kawakawaへ
次は、トイレで有名なKawakawa へ。私と次姉は、以前来たことがあるけど、長姉は初めて。写真は歩道にまたがるトイレへの入口の柱。屋根にプランツが。

カワカワのトイレは、世界的に有名な、オーストリアの、舌を噛みそうな名前のアーティスト、フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー(Friedensreich Hundertwasser)のデザインで、Kawakawa 唯一?の人気スポット。(写真:正面入口向かって右女性用)
のびのびと自由でカラフルな色ガラスや、ビンを使った壁面の飾りや柱が特徴だ。(写真左:男性は左、女性は右へ)
女性用に入った所。右に個室が2つある。
トイレそのものは、日本みたいに、自動で水が流れるとか、温水洗浄装置、音姫などの仕掛けがあるわけじゃない。NZでは、ごく普通のタイプ。お掃除が行き届いていて、とても清潔だ。
たくさんの人たちが入れ替わり立ち替わり入っては写真を撮っている。我々みたいに、このトイレを見るためだけにカワカワに来る人が多いに違いない。でも、有料にしていない所がいい。

通りの向こうには、トイレの柱と同じものを模した柱のあるおみやげやさんが。チラリと覗いて、Kawakawa は、これにてお終い。
ここから、今日の終着点、ホテルのあるPaihiaまで(11キロほど)、ロビンのガイドでドライブ。

2011年2月11日金曜日

NZの隅々を旅するの記9-10a

北島 北部の旅
10月14日 AKL空港~Kerikeri空港


北島北部(Northland:マップ参照)の旅程は、3泊4日。17日に、姉たちは、AKL(オークランド)空港から朝9時半発のNZ航空で帰国するので、十分な時間がない。オークランドと北島北部を往復する時間がもったいないので、今回は飛行機を利用することにした。
14日
11:20 Palmerston North発AKL空港行き  
12:25 AKL着 
13:30 AKL発 Kerikeri空港行き  
14:10 Kerikeri 空港着


パーミー空港から、荷物は、kerikeriまで直行。私たちは、AKL国内空港から、体一つでKerikeri行きに乗り換えればいいので楽だ。AKL国内空港から乗り込んだ飛行機は、何と20人乗りの小さなプロペラ機。でも、満員だ。天井が低く通路は狭く、大きな人は通るのが大変だ。パイロットと副パイロットが乗ったコックピットと客席の間にドアはない。副操縦士が、スッチーの仕事も兼ねているようだ。と言っても、お茶のサービスも何もなし。


雲より下を飛ぶ低空飛行なので、窓から眺めるとキラキラ輝く海、緑の美しい島々、半島、家並み、ファームや羊、森林等が良く見える。まるで地図を見ているようで、楽しい~~!







Kerikeri空港が、また、小さくてかわいい!乗客が降りた後、荷物は、ゲートから入った所の到着ラウンジの床にポンポン置かれる。目の前が出口で、出入り自由だから、乗客も迎えの人もごった混ぜ。番号チェックなんか全然なし。こんな田舎の空港では、荷物を盗って行く人なんて想像もできないのだろう。(写真:今から荷物が降ります)


お迎えの人たちの中に、私の名前?らしき綴りを書いた紙を掲げた女性が立っていた。予約しておいたケリケリ・タクシー(Kerikeri taxis) の人だ。車は、ワゴン車で、大きな荷物も難なく置けた。


私は、助手席に乗り、色々運転手の女性(ロビン)と打ち合わせ。予定では、ケリケリの観光名所を観光しながら、パイヒア(Paihia)のホテルまで乗せて行ってもらうということだった。


途中、ロビンは、チョコレートファッジの味見ができるから、とお土産品店に連れて行く。多分、そこにお客を連れて行けば、リベートがもらえるのだろう。ファッジは、今日は無いということで(ファッジに興味はなかったけど)、せっかくだから、ちょっとしたものを買ってお店を出た。


その後、予定していたチョコレート工場(Makana Confections)に行き、味見をして、できたてのチョコレートを姉がお土産にと買った。すごくお天気が良く、暑くなってきた。ロビンは、チョコレートが暑さで溶けないようにと、自分の家に寄り、氷を入れたクーラーボックスにチョコレートを入れてくれる。何て親切な人。

その後、ロビンは、私が予定してなかった滝を、良いところだから是非行くべき、と、連れて行ってくれた。その滝は、滝つぼを上から見下ろすことができ、しぶきが光を反射して虹ができている。

その名も、Rainbow Falls、虹の滝、なるほど~!下の清流にダブルの虹がとてもきれいだ。ロビン、連れてきてくれてありがとう!





次は、1836年に、建った、英国人ミッションのための商いのお店、NZで一番古い石の建物、ストーンストア(Stone Store)へ。


そのそばにある、英国人の建てた一番古い木造の建物 Kemp House 。そばの樹に、丸いヤドリギが。


近くの丘には、ヨーロピアンが住みつく前、先住民マオリが部落をなしていた跡地、Rewa's Villageの史跡がある。ロビンによると、Kerikeriと言う地名の意味は、dig,dig, つまり、「掘る、掘る」という意味だそうだ。マオリが、土地を開拓して、主食のサツマイモをせっせと植えた土地なのだ。

19世紀、マオリと英国人との交流を経て、マオリ部族の首長、Hongi Hikaは、英語を話せるようになり、英国に渡り、マスケット銃を大量に持ち帰り、Musket Warsと呼ばれる、他のマオリ部族との血の戦い(1810~1830年代)を展開し、次々と征服していった。凄惨な戦いで、このあたりの川は、死体がいっぱい浮き、血の海と化した。丘からは、勝者が敗者の遺体を焼き食べる匂いが充満したという。美しい川も、丘も、たくさんの犠牲者の血を吸った後・・・と、思うと、複雑な気持ちになる・・・

ロビンの勧めですぐそばの教会見学へ。







小さな教会は、出入り自由で、中は、姉の見たかったステンドグラスの窓があり、大感激。ここも、予定になかった所で、ロビンが勧めなければ見過ごすところだった。感謝!

2011年2月4日金曜日

NZの隅々を旅するの記9-9c

10月4日 
3.お別れ
ホテルに戻り、チェックアウト。フロントに置いてあった宿帳をパラパラめくって見ると、8月の寒い季節に、1週間投宿した日本女性と思しき名前が。アンによると、普通、冬のシーズンは、ロッジは、開けないのだけど、その女性に連絡をもらって特別に開けたのだそうだ。
ツアーで1週間、あわただしく毎日移動して、NZの主な観光地巡りをして、くたびれ果てて帰り、もう2度と来たくないと思う人もいるらしいけど、この女性のように、1週間、ゆったりと、同じ場所で、自然と一体になる旅ができるなんて、最高じゃないの~~?!?
アーサーズパスは、トランピング(tramping山歩き:NZでは、 treckingのことをtrampingと言う)が好きな人には、特にお勧めの場所だ。パックツアーだと、1週間20万円~?で、観光地をあちこち毎日移動してぐったり疲れる。それより、格安航空券使って、こういう所に連泊して、NZの自然にたっぷり浸かって、リフレッシュして帰る方が、なんぼかいいかも?!それに、お土産買いまくるお店もないし、きっと、費用は、同じ位か、かえって安くつく?

3泊4日のウィルダネ・スロッジ滞在は、あっという間だった。上げ膳据え膳で、テレビやインターネットと言ったマスメディアから離れ、大自然の中で、ゲリー博士による特別授業で、自然の仕組みの素晴しさに触れ、色んな感動をもらうことができた。何という、贅沢!本当に感謝!

宿泊料金は、これだけ楽しませてもらえたのだから、とてもリーズナブル。日本の京都あたりの高級お宿に比べれば、お安いものだ(とは言っても、自腹を切るのは??考えます・・^^;)。

お世話になりました~!^^/

さて、出発・・・清流に沿ってドライブウェイをゆっくり進む。と、一般道路へ繋がる私道は、羊たちでふさがれていた。ゆっくり車を進めて行くと、徐々に徐々に、羊が動いてくれる。バイバ~~イ、羊たち!元気でね~~!
道路を右に出て、国道73号線をCHC空港に向けて、一路走る(参照:map)。
途中、ピアソン湖(Lake Pearson)で写真休憩。
この辺りを最初に探索したJoseph Pearsonにちなんでつけられたという柳の美しい緑に囲まれた湖面は、キラキラ光り輝いて美しい。
その後、Castle Hill(ここは、bouldering(巨岩登り?とでも言うのかな?) で有名な岩場がある)、Springfieldを通り、Shefieldから、73号線を離れ左へ入り、だんだん平地へ降りて行く。
途中、Oxford 辺りだろうか、眼前に一面菜の花で一杯の広大な平野が!!山の裾野には、長~い灌漑用水路(irrigator)が、立っている。広いカンタベリー平野のあちこちで見る灌漑用水路。乾燥地域には欠かせないものだ。その後、9月の地震の被害が甚大だったらしいKaiapoiを通って、CHC空港へ。

12時過ぎ、空港に早めに着いて、無事レンタカーを戻し、Palmerston North行き3時25分発の飛行機に乗って、ホッと一息。

かくして、9月26日を皮切りに、素晴しい天候と自然に恵まれた9日間、カンタベリー地方を中心にした周遊の旅は終わり。
(*次は、4日間(10月14日~17日)北島北部の旅、をお届けします。)