
Auckland などの大都市の繁華街でよく見かけるのが、大道芸人。NZでは歩道を歩いていると、老若男女問わず色々な芸を披露している人々をよく見かける。前に置いている箱に、色々な種類のコイン (中には10ドル以上の紙幣も) が投げ入れられている。Auckland の Queen Street (メインストリート)で、日本人の若者が二人でギターを弾いてお小遣い稼ぎをしていたのを見かけたこともある。
Koru(マオリ語)は先が渦巻状にまいた状態の fern(ファーン:シダ植物)の若芽(ぜんまい 状のもの)で渦巻状の先が段々開いてfernの 葉になります。Koru は、新しい命が始まる 印として、新生や、再出発を意味するものと して、マオリの彫り物や刺青の模様に使われ ています。
NZにいて、いつも感じる違いの一つに、鯨への日本人とKiwiの感情の差だ。捕鯨船が南極に来るたびに、テレビは、大々的に日本の捕鯨に反感を持った語りでニュースを伝える。市民に意見を聞く場面では、必ず日本の鯨への残酷な殺戮を非難する声でいっぱいになる。その度に、私は、複雑な感情でその場にいたたまれなくなる。親しいKIWI の友人たちでも、一旦鯨のことになると、私と意見が合わなくなるので、捕鯨に関する討論は避けることにしている。
彼らは、詰まる所、「鯨は非常に知的で、絶滅の危機に瀕している希少な動物だから、殺すなんてとんでもない」と言う考えに尽きるのだ。私は、「じゃ、豚はどうなの?鯨が知的なら豚も知的でしょう?どうして食べていいの?遊びや楽しみで狩猟して兎や鹿や鳥を殺すことは許されるの?増えすぎないようにと言う意味なら、鯨も種類によっては繁殖増加しているし、増えすぎて他の魚の存在を脅かすこともあるのよ」とか、反論しても、彼らの鯨への特別な感情は絶対で、”捕鯨は絶対受け入れられない”と言う。これは、数が多い少ないの問題ではない。ただ、”かわいそう”という感情的な一言に尽きるのだ。
私も、いざ、数値的なことになるとあいまいで、うまく反論できず、こんなに非難されてまで、調査と称して1000頭 (予定捕獲数?参考:日本捕鯨協会)以上もの鯨を獲る必要があるのだろうか?捕らえた鯨を即死させることができず苦しめている場面を見たら何て残酷な!と思うし、その殺された鯨の肉は、いったいどこでだれに食べられているの?と疑問で一杯になる。
捕鯨問題に関して、詳細を書いてあるサイトを読んだが結局捕鯨問題の国際的軋轢を解決するには問題が複雑すぎるようだ。感情論だけで、簡単に賛成、反対と片付けず、世界の人々がもっと複雑な問題として、論理的に捕鯨問題を考えるようにして欲しいと心から願わずにはいられない。